36年前の作品にしてなおこの現代性

 宮崎駿の最高傑作ともいわれる本作を、公開当時は劇場で観ていない。すでに「ルパン三世 カリオストロの城」でアニメファンの中には確固たる支持層を得ていたものの、1984年当時はスタジオジブリもまだ存在せず、当時中学生だった自分の周りでもこの映画が話題になることはなかったように思う。だから私の初見はたしか1988年くらい。「となりのトトロ」で評価が確立した宮崎の過去の作品を立て続けにビデオを借りてきて見まくった。「天空の城ラピュタ」も見た。「カリオストロの城」も見た。「パンダコパンダ」も見た。けれどもやはり「風の谷のナウシカ」がもっとも衝撃的だった。最終戦争後のディストピア的な世界観、けれどもSFアニメの枠にとどまらない強烈なメッセージ性、どれを取ってもジブリの作品群の中では一人群を出ている。そして2020年の今日、あらためてこの映画をスクリーンで見る機会を得た。改めて衝撃を受けた。当時は思いもしなかった新たなメッセージを受信することになったからだ。36年前の作品にしていまだ強烈に私たちに問いかける力とはなにか。

未来世紀の絶望世界

 未見の方のためにあらすじを説明しておこう。「火の七日間」と呼ばれる絶滅戦争から1000年が経過した世界。かつての産業文明は完全に喪われ、大地の大半は瘴気が渦巻く「腐った海=腐海(ふかい)」に沈み、残された人々はあらたな大地の支配者となった蟲や瘴気の毒に脅かされていた・・・

 最終戦争、残された人々とここまでは驚くような設定ではない。「風の谷のナウシカ」が出色なのは、作品を通じて一貫している「腐海が生まれたわけ」という謎解きを通じて、人間の救いがたい業の深さ、この惑星全体の生態系の在り方、文明の是非といった根源的な問いかけを続けていることだ。

 その意味では、映画化された「風の谷のナウシカ」は長大な原作と比べるとやはり物足りないが、無理もない。宮崎駿の完全オリジナル作品として名高い本作だが、アニメ化当時使われた原作部分は2巻の途中まで(原作は全7巻)、月刊誌「アニメージュ」で毎回16ページで休載もしばしばの「遅筆漫画家」宮崎駿が筆をおいたのは実に映画公開から10年後の1994年だったのだ。

 原作には、映画では一切登場しない「土鬼(ドルク)」というトルメキア、辺境自治体群(風の谷やペジテもここに属する)につづく第三勢力が登場する。世界観は映画以上にグロテスクで、過去の文明が遺した遺産(巨神兵など)をめぐる争いにトルメキアの王位継承権抗争、宗教対立なども絡み合い、物語はどんどん陰惨な方向に進んでいく。主人公のナウシカが人間を含む自然界の神羅万象と高い交信能力を持つ「エスパー」として描かれていることは映画と変わらないが、その万能感が前面に出ることは少ない。むしろ望まない殺戮にも関わらざるを得ないなど、絶望や悲しみと抱えながら修羅の道を進む「運命の人」として描かれている。

 だから、仮に1984年の時点で宮崎の中に最終的な原作の構想が出来上がっていたとしても、それを120分弱の劇場版にすべて詰め込むことには無理があったのだ。だから「原作から比べたら物足りない」という批判は、ある意味当然だし、上記のような経緯を踏まえればあまり意味がない。むろん、クライマックスにおけるナウシカの超人的な活躍から引き起こされる「奇跡」については賛否両論があっても構わない。押井守が宮崎作品について「クライマックスで主人公に超人的な働きをさせることで、ドラマ的な興奮を減殺してしまっている」とかつて批判的に述べていたが、私も一定同感である。それでも圧倒的な描写で無理筋を正当化してしまう力量があるのも宮崎作品なのだが、ここでは詳述しない。「風の谷のナウシカ」が本当の意味で傑作たるゆえんは、2020年7月現在の私が昨夜劇場で受けた衝撃によるものなのだ。

善悪とはなにか

 劇場版「風の谷のナウシカ」で一貫しているのは、作品世界の中のほぼすべての人間が共通して抱いている「腐海」や「瘴気」への怯えとそれらの守護者である蟲への恐怖心、敵愾心だ。腐海により近い辺境の自治区である風の谷の住人は「腐海」とともに生きていかなければならないという諦念にも似た意識を持っているが、トルメキアの司令官であるクシャナや参謀のクロトワにはその意識はない。むしろ負の遺産である「巨神兵」を復活させてでも腐海を焼き払い、人類の文明を取り戻そうとさえ(政治的思惑があるにせよ)している。だから彼らから見れば腐海も蟲も滅ぼすべき存在だ。

 ナウシカは腐海で採取した胞子を地下深くから掘り出した水と砂で栽培することで、清浄な土と水からはそもそも腐海の植物ですら瘴気を発せず、風の谷の大地そのものが汚染された結果、毒素を分解するために植物は働き、その副産物として瘴気を発生させているのではないかという結論にたどり着く。このナウシカの推論は、物語中盤でアスベルとともに落下した腐海の深部で確信に変わる。今まで敵視し、恐れる対象であった腐海や瘴気こそが、この世界を浄化する存在であり、人間にとっては脅威でしかない蟲たちも腐海を護り、浄化を進める装置であったのだ。

 もちろん、このようなコペルニクス的転回を、人々の頭は簡単には受け付けないが、無理もない。瘴気の毒に侵された人々は長生きできず、老後を迎えられても手足がこわばって石化してしまう不治の病がやがて命を奪う。蟲たちの論理(摂理)は別として、人間への敵意に燃えた蟲の攻撃はただただ恐怖でしかない。劇場版でのクシャナは人間としての深みにかけ、ナウシカの父を殺した「悪役」の域をあまり出ていないが、それでも蟲に体の一部を奪われたという怒りや悲しみは本物だ。腐海や蟲が世界を浄化する「装置」としてこの星のために働いているのは事実だ。しかし一方で瘴気の毒や蟲に襲われ、命を奪われる人間がそのテリトリーを狭めながら絶望に駆られていく。腐海による浄化と人類の文明。一見トレードオフに見える両者の関係に、折り合いをつける余地はあるのだろうか。作品の中ではナウシカがその最適解をかなり劇的に示してみせるのだが、現実社会でそれは可能なのだろうか?

 私が「風の谷のナウシカ」を見ながらこんなことを考えたのは、もちろん現今のコロナ禍における私たちの在り方そのものに疑念を覚えているからだ。以下に私が抱いている疑義を(反発を承知で)述べてみたい。

コロナに過剰におびえる私たち

 たしかに新型コロナは厄介なウイルスだ。50歳未満の若年層の大半はり患しても軽症かほぼ無症状のまま活動できる。ところがいったん高齢者や基礎疾患を持つ「コロナ弱者」がとりつかれると、肺機能の大半が失われ、適切な治療を受けなければほぼ全員が死に至る。メディアは毎日新型コロナウイルスの感染者数を競って報じたて、行政もやれ「三密」は避けるだの、ソーシャルディスタンスを保てだの、挙句の果てに「自粛要請」などという珍妙な言葉まで生まれた。「自ら粛す」から自粛なのだから、行政から要請された時点で「慎め」という命令なのではないのか。とくにこの国は、自粛を「要請」はしても休業補償はしない、してもできるだけ少額で済ませたい、というドケチぶりを隠そうとしないから、飲食店をはじめとするサービス業に端を発した業績の劇的な悪化はそのまま経済危機に発展してしまった。「1929年の世界恐慌の再現」という表現が現実のものとなりつつある。

 さらに厄介なのは、緊急事態宣言で与えた経済的ダメージの大きさにおびえた政府が、今後簡単には同じような措置を講じないであろうということだ。げんに昨日の都知事選で圧勝した小池百合子知事発案(?)の「東京アラート」(それにしても変な単語ばかりはやらせるお人だ)にしても「数値的な基準はない」というのだから呆れる。要するに「感染者は増やしたくないけど、これ以上経済を悪化させたくもない」というジレンマに陥った為政者が何もできない状況になっているのだ。

 そもそも新型コロナウイルスはそれほど恐ろしい病気なのだろうか。我が国にでの感染者数に占める致死率は5%にも満たない。全世界で見たって5%そこそこだ。日本での新型コロナウイルスによる死者数は7月5日時点で1000人弱だ。これを多いとみるか少ないとみるかは意見が分かれるところだろう。しかし、市中肺炎による死者数は毎年10万人を超えるし、死亡率も9%台と高めだ。季節性インフルエンザによる死亡者数も2018年は3000人を超えた。これらの感染症と比べて、新型コロナウイルスが特別我々の脅威となる理由が何かあるのだろうか?私にはわからない。

瘴気=コロナと置き換えてみる

 話を映画に戻そう。風の谷の人々は腐海や瘴気を恐ろしいものと捉えつつも、ともに生きていかなければならない存在だとも認識している。生まれてくる子供が短命であることを諦めてはいないが「どうか丈夫に育ちますように」と願うばかりだ。石化の病に侵された老人たちも、自分たちのこわばった手をクシャナに示して、ナウシカは「働き者のきれいな手」だと褒めてくれる、と目を細める。ここで描かれる人々は、腐海の毒に対して自分たちが非力な存在にすぎないことを大前提としている。そのうえで、与えられた人生を精一杯生きようと覚悟を決めている。

 ここで瘴気=コロナと置き換えてみよう。現在新型コロナというウイルスに対する私たちは同様の覚悟を持てているのだろうか。確かに新たなウイルスには未知の部分も多いし、なにやら恐ろしげではある。けれども落ち着いて考えてみれば、ウイルスで死ぬ確率より他の遺伝性の病気や慢性疾患の複合要因、与えられた余命を使い果たしての「老衰」などで死ぬことのほうがはるかに多いのではないか。であるならば、なぜ「新型コロナウイルスによる死」だけをそれほど恐れる必要があるのか。

 誤解を恐れずに言わせてもらうと、私は医療や介護の現場で働く人々の「善意」が今回の過剰なコロナ恐慌の一因となっているように思う。なぜそう言い切れるのかというと、私自身が医療機関に勤務する身であり、連日コロナ対策に右往左往させられている当時者だからだ。

 実際、医療や介護の現場の追い詰められ方は尋常ではない。マスク着用、エタノールによる頻回な手指消毒はむろんのこと朝と午後の体温計測、必要に応じてのフェイルシールド着用、食事は黙って一人で摂る、これだけのことをやっていても、たった一人の感染者が出ると、まるですべてが無駄であったかのように衝撃を受け、懊悩する。感染者を出した施設はさらに厳戒態勢となり(職員が感染しようものなら周囲はパニックに陥り、本人はまるで犯罪者であるかのように恥じ入る)、入居者は家族との面会も制限され、外出もままならず、実質的な軟禁状態となる。もとより家族からは了解を取っているから、(コロナウイルスによるものではなしに)普通に危篤となっても、肉親は誰も看取ることはできない。死亡確認後に連絡がはいるだけだ。知人に、ガン末期の母親を緩和ケア病棟(ホスピス)に入れたひとがいた。ホスピスなら自宅同様に夜間を含めて出入りが自由だし、最後の時間をゆっくり家族と過ごせる。そう踏んで介護休業を取ったのだが、肝心のホスピス側が面会を謝絶、母親とは一切会えなくなったため、介護休業を取り消して職場復帰した。これでは何のための緩和ケアなのかわからない。

 むろん、自身も医療機関で働くものとして、同僚や施設関係者の「善意」は疑わない。医療機関が活動停止となれば、日常的に医療へのアクセスを必要とする患者が不利益を被る。場合によっては命の危険にさらされることもあるだろう。でも、冷静になって考えてみれば、他方で過剰なコロナ対策によって施設の入居者の「最後の日々」を人間らしく生きる権利を奪ってはいないか。平均寿命をとうに過ぎ、人生の黄昏を生きる高齢者にとっては、最後のお迎えが「老衰」なのか「コロナ」なのか、それは大した問題じゃない。なのに「コロナ」による死のみがやたらにクローズアップされ、「コロナでだけは死なせまい」とする風潮が蔓延している。コロナへの対策と人間らしい生き方、死に方は本来トレードオフの関係ではないはずだ。何かがおかしい。これでは巨神兵を使って腐海を焼き払おうとしているクシャナたちを笑えない。自分たちも「コロナでだけは死なせない」という考えに縛られ、「生命至上主義」という名の最終兵器で未知のウイルスに戦いを挑んでいるようなものだからだ。そして、断じていうが、この戦いに勝利はない。

クシャナたちより愚劣な日本政府首脳

 日本におけるコロナ対策はさらに問題の根が深い。先に述べたように、この国の政府には「自粛要請する以上休業補償もきっちり行う」という姿勢が欠落しているからだ。その何よりの証拠に、企業の粗利補償や、低所得者にこそ恩恵があるはずの消費減税・廃止などはいまだ実現していない。それどころか政治家の中には「これを機会にゾンビ企業は淘汰されるべき」「これだけ赤字国債を発行したのだから、将来的には広く国民に負担してもらう(=消費税再増税・コロナ増税」などという意見が見受けられる始末だ。そう、コロナ対策以前に、我が国はとっくに「人間にやさしくない国家」となってしまっていたのだ。自己責任論の横行もその一証左にすぎない。

 そもそもウイルスは「自らたんぱく質を作り再生産する」という生命の根本的な機能を持っていない。だから生命体を宿主として増殖を図るしかない。自分たちの過剰増殖による宿主の全滅は、ウイルス自身望まない結末だ。だから、増殖の勢いはある程度抑制が効いたものとなる。

 14世紀にヨーロッパ諸国で猛威を振るったペストは、欧州は人口の3分の1を死に至らしめた。それは逆に言えば残り3分の2は生き残ったということだ。特に被害が大きかったイングランド王国では人口の半数を失った。圧倒的労働力不足を背景として小作農の自立が進み、イギリスの封建制は崩壊に向かい、農産から毛織物への転作が進んだ。産業革命の萌芽もここにあったとみるべきだろう。ペスト菌は非常に致死率が高く、いまだに恐ろしい病原菌ではあるが、人類を絶滅させることはなかったし、結果として文明の進化に寄与したともいえる。全人類が絶滅し、文明を崩壊させるようなウイルスは今までも存在しなかったし、これからも出てこないだろう。

 しかし、今回のコロナ禍が本当に人類にとっての災厄となりそうなのは、むしろその対策によってである。つまり、感染症の拡大を過剰に恐れるあまり経済活動が著しく制限された。需要とともに供給体制も大きく損なわれ始めている。不幸なことに、我が国やEUはグローバル化とセットになって絶賛緊縮財政発動中だ。この状況にあっても日本国政府はプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化(すなわり、国民経済の赤字化)を放棄していない。このままでは、コロナによってではなく、経済被害による死(自殺など)が急増することになる。すでにアメリカがそうなっているように失業者が激増し、社会保障給付の必要は今まで以上に増すことになるだろう。そのために消費税をさらに増税するのだとしたら、もはや開いた口がふさがらない。でもそんな愚策を平気で進めかねないのが今の自民党政権であり、財政再建至上主義者たちなのだ。

ウイルスと共存する社会は、人間にやさしい社会でもある

 三度映画に戻ろう。作中のクシャナは前述の財政再建至上主義者同様、「腐海」を「財政赤字」と同じくらい憎んでいる。でもナウシカが示す腐海と人類の共存という「進みすぎた考え」に対して物語後半では「あの娘とゆっくり話がしてみたかった」というくらいの姿勢には転じていた。エンディングでのナウシカの「奇跡」を待たずして、すでにクシャナの中でも自身のドグマへの疑念が生じているようにも見えるのだ。ひるがえって、現代に生きる私たちはどうだろう。

 「国の借金(赤字国債)」がその実日銀による買いオペというプロセスを経た「国による貨幣発行」にすぎないということを、そして国債発行によって国民は豊かになるということを(定額給付金や持続化補助金などで)私たちは体験的に知った。それでも「消費税は社会保障費の財源」「(国の累積赤字を増やして)将来世代につけを先送りするな」などという財政健全派のプロパガンダに乗せられて、我々の祖先から連綿と受け継がれてきた国の富や生産体制を破壊しつづけている。

 一方で、未知の新型ウイルスへの恐怖にかられ、過剰な防御反応に身を任せ、国民同士が攻撃しあい、閉塞的な状況はなおも進行しつつある。「風の谷のナウシカ」は公開当時「環境問題をテーマとしたメッセージ性の強い作品」と定評だった。しかし、2020年の現在改めて見てみると、はるかに奥の深い、マクロでは人類文明の在り方を、ミクロでは私たちひとりひとりの生き方や死に方までもを問うているように思われた。やはり宮崎駿の最高傑作だと強く感じるゆえんである。

追記 後半巨神兵が(唯一)活躍する、庵野秀明作画のシーンは必見。後年わざわざ別作品にしただけのことはある。

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